知識による分断

量より手法の時代へ

最近の日本のネット界隈で、この社会の分断化現象に付随して唱えられているのが、親ガチャ外れ、という概念のようです。つまりくじ引きのように裕福で教養と愛情のある両親のもとに生まれなかったから、良い教育もうけられず、性格も歪んで、ルックスも磨くことができずに将来の可能性がない、といった論調がそこに続きます。確かに、生まれはその後の人生を大きく左右するものなのは間違いありませんが、本当にそこから抜け出すことはできないのは違う、と思うのです。与えられたものにこだわるより、自分で獲得する方法を模索するべきではないのか、と。

ここで、なんでも自分で頑張れ!などという昭和生まれお得意の根性論を持ち出すつもりは全くありません。ただ、昭和生まれには、周りに第二次世界大戦を生き抜いてきた人たちが多かった、という一面があります。私が小学生だった頃の東京下町では、資産や持ち家、家族代々受け継がれてきた事柄などが全て焼き尽くされ、破壊された状態から立ち上がってきた家族ばかりでした。つまりガチャなんて考えが生まれる余裕さえない、ギリギリの生活だったのです。これはおそらく、よほどの貴族や華族の家柄ではない限り、日本全国が同じような状況だったでしょう。そう考えれば、戦後に生まれた日本人は総じて親ガチャ大外れ。でもそれで日本の未来がなくなったのか、といえば、そうではなかったのは歴史が証明しています。そして、現在ほど他責思考ではなかったのも確かですし、新しい知識を求める気概、のようなものには溢れていた記憶があります。

そこになかったものは

その頃は誰もが真摯に生きていたから向上できた、などという昭和幻想を持ち出すつもりはありません。実際にそこを生きていれば、そんな綺麗事ばかりの時代ではなかったのは身に染みていますから。ただ、一つ確実にいえる違いは「その頃はネットはなかった」ということです。私自身、仕事環境も含めて深くネットに依存していますから、かの有名な「ここはひどいインターネッツですね!」的な思想はありません。とはいっても、最近、講座でお話ししていて一番悲しい瞬間は、受講生さんたちに質問した瞬間に、考えずにすぐググられるとき。そうして一定の答えを探し当てて満足そうに回答してくれるのですが、その人たちの表情を見れば、その回答はあくまでも「知った」だけであり「学んだ」ことにはなっていないのも見えるからです。今、私たちの大脳は、ちょっとでも気を緩めればネット情報の通過駅にしか過ぎない状態になっているような気がします。

昔から、学びにとって最も重要なのは、知識を手入れることだけではなく、どうやってその知識に辿り着くのかを身につけることだ、といわれてきました。ネットがなかった頃は、疑問を感じれば誰かに聞いたり、地域の図書館まで出かけてみたり、というように様々な手段を駆使する必要がありました。それだけに、たった一つの回答を得るまでには、気の遠くなるような手間と時間がかかったのは事実。でもそれだけに、そうやって手に入れた知識はしっかりと記憶に残りましたし、次に何かの壁にぶつかったときにも、その解決法の選択肢が見えている、という収穫がありました。反して、便利になった現在はどうでしょう?スマホの充電が切れたら、呆然と佇むしかない人が多いのでは?自分の全身を使って知識を得ている人と、指先だけを動かす人には明確な差があるように思えてなりません。

知の分断化

大袈裟かもしれませんが、これが私が感じている知識や学びによる分断化現象です。あるいはもっとはっきりいってしまえば、考えている人と、情報をただ通過させている人との分断化、です。自分の手で調べるという作業が身についている人は、デマに踊らされることも少なく、何かの情報を一方的に盲信していることも少ないように感じます。特別に頭が良いとか、良い教育を受ける機会があったとかではなく、自分の頭で考えることができているのです。逆に大量の情報をただただ受け流している人たちは、より多く流れてくる情報、より刺激が強い情報に反応するだけで、何も自分では考えてはいないような。そのような状態の先には、プロパガンダに踊らされ、操られる人形へと成り下がっていく未来が見えているような気がします。

そして悲しいかな、そうなってしまうともう、何が正しい情報なのか、さえ判断できなくなってしまいます。考える、のではなく、反応する、だけになってしまうから。ネットを使うな、頼るなとはいいません。でもそれに隷属する生き方からは、大急ぎで引き返すべき時期ではないでしょうか。

もう人類は「どれだけたくさんの知識を記憶しているか」を課題にする時代ではなくなっていると思います。どんなに記憶力の良い人でも、世界中のガジェットに記録されたデータ量と競うことなどできません。だからこそ、どうやってより正確な知識へと辿り着き、どのようにそれを活用するのか、という手段を複数、しっかり身につけておくべきではないでしょうか。Wikipediaがダウンしたからわかりません、スマホを忘れてきたので回答できません、では、いくらなんでも悲しすぎませんか?単なるガジェットの奴隷、情報の通過路に成り下がらないためにも、学び方そのものを学ぶ、という姿勢を忘れないようにしたいものです。

著者について

ヘイズ中村は子供の頃から神秘の世界に魅せられ、長じて占い師、魔術研究家になりました。とくにトート・タロットに惹かれて『決定版・トート・タロット入門』も執筆しました。隙間時間には下手の横好きなレース編みをしたり、異次元に想いを馳せられるSF映画など楽しんだりしています。

ヘイズ中村は下記のサイトでも活躍しています。ご意見や質問などお待ちしております!