友情と運勢と
悪運は伝染するのか
同じ趣味には同じタイプの人が集まります。家族や夫婦は長い年月、同じ時間を共有することで性格や行動パターンがよく似てきます。それは事実ですし、そうした根本的な部分が似てくれば、運勢も似てくる可能性はあるかもしれません。ただ、それだからといって「不運な人と付き合うと、自分も不運になる。だから不運な友人とはさっさと縁を切る」という考えには首を傾げてしまいます。
しかし、こうした考えは、最近、決して珍しいものではない様子。特に開運などを気にしているスピリチュアル系の人たちには、ある種の「常識」にさえなっているような気がします。実際、私のところにも、家族が続けて怪我をしたら、あなたは不運を運んでいるからと友達から縁を切られた、という相談がくるようになっています。だいたい、友人というものは水晶のブレスレットや神社でもらうお札などとは違って、温かい血が流れている人間です。そんな簡単にぱぱっと交換できるものではありません。地球上にたくさんいる人類の中から、あなたと考えがあって、一緒に食事をしたり、笑ったり、泣いたりして、一期一会で人生を分かち合える存在のはず。そんな人たちを、一時の運勢の浮き沈みで切り捨てるなど言語道弾ですし、因果応報でやがては自分が切り捨てられるでしょう。
確かに、自分で運が悪い状況を呼び込んでいるタイプ、というのは存在します。とはいっても、そうした方々は、約束に平気で遅刻してきたり、人から借りたものを返さなかったり、といった行動が多く、不運というよりは当然の帰結といった状態が少なくないようにも思えます。そんな行動を繰り返す人とは交流している方が辛くなってしまいますから、関係を終えるのもわかります。
でも本当に友人ですか
ここまでは、過去にもよくあった話といえるかもしれません。ただ、ここからは現代ならでは、という疑問点。最近、そうした「不運な友人を切った」という人に、どんな関係だったんですか?と質問すると、SNSでやりとりしていたけれど、実際に会ったことはない、といった回答もあるのです。それって、本当の友達なの、という古臭い質問もしたくはなるのですが、それ以前に、その相手は「人間」なのか、と疑ってしまう自分がいます。最近のSNSなどは、様々なアルゴリズムを動かして、より多くのビッグデータを収集する活動が行われていますよね。
使用者の好みに合った声で回答してくる電話、こちらがよく話題にすることに見事に対応して表示される投稿、それらはどれも、蓄積されたデータを学習したプログラムによるものです。冷静に考えれば、あなたに向かって「また振られちゃった」とか「職場の上司の頭が固くて」などと愚痴を送ってくる自称「友達」は、そうした事柄へのあなたの反応データを収集しているだけのプログラム、という可能性もあるのです。そんなプログラムを相手に「思い切って縁切ってやった!」などと粋がっているのは、滑稽なのか、惨めなのか。
自分しか見ていない人
その二つは異なる問題でしょうか?いえ、根底は同じだと思うのです。友達が大変なときに、助けようともせずに単に縁を切って「幸運になる」と信じていられる無神経さ。会ったこともない相手を、自分の気分に合っているというだけで友達扱いして、気に入らないとすぐに切り捨てる横暴さ。そして、自分の周りの情報が全て正しいものだと頭から信じてしまい、検証することさえ考えない単純さ。どれもこれもが、自分だけ、しか見ていない現象の結果だと思います。その人の世界では、何もかもが「自分」という存在を引き立てたり、便利にしてくれたり、楽しい気分にしてくれるための道具にしか過ぎないのでしょう。だから、周囲にしっかりと目を見開いていることもなく、結果的に生身の人間とアルゴリズムの区別もつかないまま、過ごしているのです。
正直、自分の運勢のために友達を切り捨てるなどとほざいている人間は、それ相応の人生を歩んでしまえ!と思っています。でも、生身の人間とプログラムの見分けがつかなくなってしまうのは、今そこにある危機として捉えるべきでしょう。どうすれば、AIに騙されないで毎日を過ごすか、そして人とプログラムの違いをしっかりと見極められるのか。
今のところ、そのための回答はありません。しかし、自分の都合や気分だけで判断するのではなく、日頃から相手の言動や回答に真摯に向き合う姿勢は、有効だと思います。そして何よりも、人間、生きている時間は短いのです。この地球で語り合える人と知り合えた、という奇跡に感謝して、できる限り実際に会いに行くようにしましょう。それができて、その大切さがわかることこそが、人間なのですから。